わじゅ記

2002年12月2日(月)

先月20日に義父は他界しました。
そして今夜は二七日。
亡くなってから今日まで本当にバタバタの毎日でした。
あれやこれやと宗教的な決まりごとに忙殺され、
まさに悲しんでいる間もない毎日。
そういう風に過ごせるようになってるみたいです。
湿っぽくなってしまうのは嫌いな義父だったので、あまりメソメソせずに、
十数年という短かった義父とのあれこれを思い出したりしています。

だから、私と主人とのなれ初めなどを今日は思い出したりして・・・・

両家の付き合いはかなり昔にさかのぼる。
まだ主人も私も生まれてはいない頃。
義父は私の祖父のお得意様であったらしい。
数年後「息子が独立して店を構えましたのでどうかそちらをひいきにしてやってほしい」
と私の祖父から言われた義父は、それ以来今日まで、私の実家のお得意様なのです。

そして十数年前のある日、私は兄の結婚式ではじめて義父に出会います。
お得意様に粗相のないようにと緊張しながらビールを注いだのを覚えております。
そのときに義父は私に彼氏がいないという情報をしっかりキャッチして帰ったそうな・・・

そして数ヵ月後不思議な偶然が訪れます。
私はすこしばかり某百貨店で働いておりました。
そして母の友人に同じく他百貨店で働いてるお方がいらっしゃり、
先輩であるその友人に私が職場で取った写真を見せたのでした。
確かひどい写真で、一枚はディスプレイのマネキンの横でピース。
もう一枚は金髪のヅラをかぶった私と、その私に腕組みされた、
ヅラなしのつるつる状態のマネキン。
そんな写真がお気に召したのか そのお友達はお持ち帰りになったのでした。
で、ある日、義父は遠縁に当たるお宅を訪ねる機会があり、そこで偶然にもその変な写真を目にする事になる。
「どこかでみたことがあるな・・・・」
そう、それが私です。

既に毎日商売であれこれやりとりしている、双方の兄が、
お互いの弟、妹を連れて、食事に。
これってやっぱり御見合いなの???
当時の私は母の看病が精一杯で結婚する気持ちなど微塵もなく、
なんだかどうでもいいや〜
ってな軽い気持ちで、付き合いがはじまったのでした。

義父があの時あの写真にピンときてなかったら、私は今ココにいなかったのかな?
いや、義父が私の祖父のお得意様でなかったら・・・
そう思うと、義父あっての今の私だといえるんだな〜
私と主人の根っこには義父の存在があったんだな〜
おとうさん、本当にありがとう。
いっぱいいっぱい御世話になりました。

2002年11月17日(日)

アレだけ、月に一度はわじゅ記を書こうと思っていたのに・・・
気がつけば、11月も半ばでございます。
皆様お元気でしょうか?
わたくしは、嫌な咳がおさまらず、グズグズしているわりには、
自分がやりたいことをする時だけは、結構元気にやっております。

とはいえ、先週から、嫁ぎ先の父が入院をいたしました。
自分の実家の人間が入院するのは何度も経験して、それはそれでつらいことではありますが、
嫁ぎ先の誰かが入院するとなると、自分の立場がちょっとわからなくなったりします。
どこまでしてあげればよいのか?
どこまでしなければならないのか?

舅は昨日、腎臓の機能が低下し、緊急透析をすることになってしまいました。
想像以上に、うろたえてしまいました。
かといって、落ち込んでいる訳にはいかないんですね。
とにかく、少しでも自分のできることを。とは思うものの・・・・・
実際何も役にはたたず、ただ、「いるだけ」状態もしくは、「待機」状態です。

昔、父方の祖母が入院した時、忙しくあれやこれやと動き回っていた母をふと思い出す。
なんだか、私はなさけない。

ああ、でも私にもできることがありました。
祈ります。拝みます。
とにかく、あの浮腫んだ手足を元にもどして、少しでも楽に過ごせるように。
たのみます。お願いします。

2002年9月23日(月)

何かと行事が続く2学期が始まった。
まず最初のメインイベントはなんと言っても運動会。
運動会といえば、選手リレー。
我が家は成績表のことはあまりこだわらないが、選手リレーはこだわる。

「今年のタイムはどうやった?」
「クラスで一番速いのは誰?」
「もう決まったん?選手」
とまあ、こんな会話がそれとな〜くしつこく母からも父からも繰り返される。
だけれど、クラスによっては先生の方針で、必ずしも足の速い人が選手に選ばれるというわけではないようだ。
出たい人を募って、ジャンケンで決めるクラスもあるらしい。(私の頃は出たい人!なんて聞いたりはしなかった。速い人が絶対に出るものだったし、出たくないとかという選択肢はなかった)
だが、主流は 出たい人の中から、タイムの速い人 もしくは走ってみて上位数人を選ぶというのになってくる。

我が家の長女は今年6年生。
今までジャンケンで決めた年も、タイムで決めた年も経験してきたが、何とか毎年選手としてエントリーする事が出来てきた。
エントリーとあえて書いたのは、出られなかった時があったから。
4年の時、運動会の前日に股関節炎を起こし、入院し、出場できなかったから。

さて、最終学年の今年であるが、まだ決定していない。
タイムでいくと、選ばれることになるが、クラス担任の先生が
「最後の年くらいは、一番速い人達ではなくてその次の人たちに出させてあげたい」
とおっしゃっているそうな。
わかる。わかる。おおいにわかる。

一度も経験してない人を出させてあげたいのが人情だ。
とはいえ、親ばか根性丸出しのわたくしとしましては、
「速いもんばっかりが出るから、選手リレーなんちゃうん?出たいひとがでるんなら、仲良しリレーとか、お楽しみリレーとかって言う名前にすればいいじゃん。うちの子の数少ない取り柄を 剥奪しないでやってほしいよな。最後の学年なんだから!」
等と、勝手な考えに至ってしまう。
たかがリレーされどリレーなのである。

下の子はどうかというと??
これは今年早々に出場権を手に入れた。
あっさりとタイムで決まったらしい。
この子もまた取り柄といえばこれくらい。
低学年の時は「去年出た人は今年は出ない」という方針のもと、2年は出られなかったという記憶がある。
この子に関しては暗示をかけた覚えがある。

というのは・・・・・
実は私、低学年の頃、どうしようもない運動音痴でございました。
逆上がりだけは何とかできたものの、あとはさっぱり。
走るのも遅いし、跳び箱なんて、おしりをすりながら、ずりずりと通過するという感じ。
ドッチボールも、向こうのサイドに届かないし、自転車がたまなしになったのも、随分とあとでした。
そんなある日、京都タワーの1Fで、手のひらをコピー機にかけて手相を見る占いがありまして、それをやったんですな。
そこにはなんと!「人並み外れた運動神経の持ち主!」
という一言が!!!
「うっそ〜〜」と思った私でありましたが、母曰く・・・・・
「やっぱり・・・・・きっとそうやと思っててん。お父さんも運動だけは、ようできはったそうやし、あんたも絶対そうやと思う」
そこでわたし・・・・・・「そうやったんか!!私って、運動神経抜群やったんや・・・・・」
(ちびまるこちゃんのナレーター風に) 単純な親子である!!

ところが!!
思い込むと大なり小なりそれに近づくんですな。
跳び箱が急に飛べるようになり、走るのも急に速くなり、アレだけ嫌いだった体育が、一番好きな課目になったりして。
占いといえども、こうなればたいしたものです。
そして、思い込みというものは、ある意味恐ろしいものです。

そして、数年前、下の子には暗示をかけました。
「あんたは運動神経抜群やねんで。なんてったって、お父さんとお母さんの血をひいてるねんから!」

上手くひっかかりました。単純な親子のその子供はやっぱり単純でした。

でも、どうせ暗示をかけるなら、「あんたは天才やねんで!」
という暗示を、かけるべきだったかと、今ごろになって気がついたわたくしでございました。

今や、我が子は「私って頭の回転悪いな〜」とか、「私ってやっぱ、音痴〜」などとしっかり認識してしまっております。
しかたないよね・・・・お父さんとお母さんの血をひいてるんだから・・・・・

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